サマリー「満州事変80年と石原莞爾」
実にいい記事だったんでサマリーを
「満州事変80年と石原莞爾」20110918~20 産経新聞
昭和22年4月末日酒田市に多数の外国人らが降り立った。ニュージーランド人のノースクロフト判事をはじめとした東京裁判の関係者達、総勢85人(一説には65人)であり、満州事変の首謀者とされていた石原莞爾を証人喚問するためであった。石原は当時病床にあり、酒田に臨時法廷を設け出張尋問する形をとったのである。
尋問は終始、石原のペースで行われた。
裁判長が「尋問の前に何か言うことはないか」と問うと、病人とは思えないしっかりした口調で、「ある」と答えた。
「満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」裁判長らは「証人はそんなことを言ってはならない」と制したというが、このことは東京裁判を進める上でのアキレス腱のようなものだった。石原への尋問は戦犯としてではなく、事変後の石原の上司の関東軍高級参謀で戦犯に問われている板垣征四郎元大将らについての証言を得るためだった。
なぜ自ら「満州事変の中心」という石原を戦犯としなかったのだろうか。大東亜戦争開戦時の首相である東条英機と犬猿の仲で、支那事変拡大にも反対していたためなどの説がある。
だが、石原は日本の軍人の中でもずば抜けて明晰な頭脳を持つインテリとして国際的にも知られていた。「世界最終戦争論」という独特の理論も持っていた。戦犯となって、満州事変に日本側の正当な理由があったことを堂々と述べられれば、勝者の論理だけで砂漠東京裁判が成り立たなくなる。戦勝国側がそう恐れたとする見方も有力だ。
実際、石原は酒田法廷の宣誓口述で、事変前の満州の情勢について理路整然と分析して見せた。日支両軍の関係は「一色触発あたかも噴火山上にあるままに放置されていた」と述べ、関東軍が一方的に悪いのではなく、起きるべくして起きたことを強調した。
主に尋問にあたったダニガン検事は、満州の軍閥に君臨する張学良が国民党の蒋介石に従属し、中国が整然と満州を支配していた都市、事変は関東軍が中国に仕掛けた戦いとの構図を描こうとした。だが石原はその認識に鋭く反論し、むしろ戦勝国側が満州情勢に無知だったことを際立たせた。
日本は日露戦争の勝利で、旅順・長春間の満鉄とその付属地の権益を得た。清国も日本との条約でそれを認めた。日本は満鉄を中心に満州開発を進め、それを守るために関東軍を置いていた。
しかし、日本がロシアを追い出したことで中国人の満州への移住が進むにつれ、反日・排日運動が高まってきた。特に昭和3年に爆殺された父張作霖に代わりこの地の軍閥を率いることになった張学良が「国旗」を青天白日旗に変える「易幟」を宣言し、蒋介石の国民党と手を結んでからはその動きに拍車がかかる。組織的にもなった。
昭和6年になると中村震太郎大尉殺害事件などが起き、日本人の安全は著しく脅かされる。日本による厳重抗議件数は3千件を超えたとされる。満州にいる日本人ばかりでなく、日本国内からも関東軍に対してその軍事的解決を求める声が強まった。特に昭和3年、関東軍の参謀となった陸軍の俊才、石原には、その「期待」が一心に集まる。そして、満州を占有することしかこの問題の解決策はないというのが、石原の結論だったのである。
石原は、酒田法定での宣誓口述書の中で満州の状況を「いずれか一方が譲歩するか双方が妥協しない限り、解決は至難と認められた」と述べた。さらに「単なる外交交渉による日本権益の保持は期しがたかった」とし、こう主張した。
「万一日本が満州より全面撤退したなら、単に権益を失うばかりではなく、ソ連が満州に進出し、日本自体がその国防をまっとうし得ず支那(中国)もまだ国防上重大な関頭に立つと言わざるを得ない」
日本による侵略戦争であったなど、石原にすれば一笑に付すしかなかったのだ。
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