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2011年10月

2011年10月24日 (月)

サマリー「辛亥革命の今日的な意味は何か」

サマリー

「辛亥革命の今日的な意味は何か」H23.10.10産経新聞
中嶋嶺雄 国際教養大学理事長・学長

 今日10月10日(20111010)は辛亥革命の発端となった武昌での蜂起(1911)から百周年の記念日である。中華民国の建国に扉をひらいた辛亥革命はまさに、中国近代史の大きな分水嶺となった出来事であった。
 辛亥革命の結果、翌12年の元日には、米国から帰国した孫文が中華民国臨時大統領っ就任を南京で宣言し清朝は崩壊した。孫文は、北洋軍閥を率いてきた袁世凱にその地位を奪われ、以後、中国は軍閥割拠の混乱を余儀なくされる。
 孫文は「革命いまだならず」という有名な委嘱を残して没する。結局は当時のソ連とコミンテルンに頼るという「連ソ容共」政策に向かい、中国を革命と内戦の時代に招じ入れてしまった。21カ条要求に抵抗する五四運動や2度にわたる国共合作とその破たんによって、中国共産党の毛沢東と中国国民党の蒋介石という二人のリーダーが歴史の前面に登場することになり、49年の中華人民共和国成立以後も、中国国民党と中国共産党との対立と違和は存在し続けて、今日に至っている。

☆号「中山」は日本の表札から
 孫文については多くのことが語りつくされながら、その実像については意外に知られていない。
 ・孫文の号は孫中山で、中国にも台湾にも「中山公園」や「中山路」など「中山」を冠した場所などが数多くあるが、孫文が東京・日比谷の宿屋に名を秘して泊まった際、通りがかりに見た表札の「中山」を使ったのがそのいわれであること
 ・客家出身で広東省出身の孫文が、客家語か広東語のどちらを使っていたか不明

☆孫文の位置、中台社会と乖離
 孫文の言説と現実社会の間には、中国においても台湾においても大きな背理あり
 孫文が唱えた三民主義(民族・民権・民生⇒漢族独立・民国創立・地権平均)と五族共和(漢・満・蒙・回・蔵)※蔵はチベット
 いずれも、共産党の一党独裁と漢民族の優位を実行している今日の中国には全くなじまない。台湾においても五族共和はもとより三民主義も80年代末李登輝の「現代の三民主義(自由・民主・均富)」が実現するまで無関係なスローガン。
 中国と台湾の社会的現実と孫文の位置との大きな乖離にも関わらず、孫文がなお絶対的な存在としてあつかわれているのは、政治的に利用するためにほかならない。

 台湾の総統選挙が来年1月に迫ってきただけに、中国との関係の密接化を求める国民党の馬英九総裁は、再選を目指して、「国父」孫文の功績を大いに活用するであろうし、民進党主席のサイ(草冠に祭)英文女史は「国父」との距離を敢えて目立たせるであろう。この点にこそ、「中華民国100周年」の今日的意味があると言えるのかもしれない。

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2011年10月17日 (月)

サマリー「満州事変80年と石原莞爾」

実にいい記事だったんでサマリーを

「満州事変80年と石原莞爾」20110918~20 産経新聞

昭和22年4月末日酒田市に多数の外国人らが降り立った。ニュージーランド人のノースクロフト判事をはじめとした東京裁判の関係者達、総勢85人(一説には65人)であり、満州事変の首謀者とされていた石原莞爾を証人喚問するためであった。石原は当時病床にあり、酒田に臨時法廷を設け出張尋問する形をとったのである。
 尋問は終始、石原のペースで行われた。

 裁判長が「尋問の前に何か言うことはないか」と問うと、病人とは思えないしっかりした口調で、「ある」と答えた。
 「満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、満州建国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を戦犯として連行しないのは腑に落ちない」裁判長らは「証人はそんなことを言ってはならない」と制したというが、このことは東京裁判を進める上でのアキレス腱のようなものだった。石原への尋問は戦犯としてではなく、事変後の石原の上司の関東軍高級参謀で戦犯に問われている板垣征四郎元大将らについての証言を得るためだった。
 なぜ自ら「満州事変の中心」という石原を戦犯としなかったのだろうか。大東亜戦争開戦時の首相である東条英機と犬猿の仲で、支那事変拡大にも反対していたためなどの説がある。
 だが、石原は日本の軍人の中でもずば抜けて明晰な頭脳を持つインテリとして国際的にも知られていた。「世界最終戦争論」という独特の理論も持っていた。戦犯となって、満州事変に日本側の正当な理由があったことを堂々と述べられれば、勝者の論理だけで砂漠東京裁判が成り立たなくなる。戦勝国側がそう恐れたとする見方も有力だ。

 実際、石原は酒田法廷の宣誓口述で、事変前の満州の情勢について理路整然と分析して見せた。日支両軍の関係は「一色触発あたかも噴火山上にあるままに放置されていた」と述べ、関東軍が一方的に悪いのではなく、起きるべくして起きたことを強調した。

 主に尋問にあたったダニガン検事は、満州の軍閥に君臨する張学良が国民党の蒋介石に従属し、中国が整然と満州を支配していた都市、事変は関東軍が中国に仕掛けた戦いとの構図を描こうとした。だが石原はその認識に鋭く反論し、むしろ戦勝国側が満州情勢に無知だったことを際立たせた。

 日本は日露戦争の勝利で、旅順・長春間の満鉄とその付属地の権益を得た。清国も日本との条約でそれを認めた。日本は満鉄を中心に満州開発を進め、それを守るために関東軍を置いていた。
 しかし、日本がロシアを追い出したことで中国人の満州への移住が進むにつれ、反日・排日運動が高まってきた。特に昭和3年に爆殺された父張作霖に代わりこの地の軍閥を率いることになった張学良が「国旗」を青天白日旗に変える「易幟」を宣言し、蒋介石の国民党と手を結んでからはその動きに拍車がかかる。組織的にもなった。
 昭和6年になると中村震太郎大尉殺害事件などが起き、日本人の安全は著しく脅かされる。日本による厳重抗議件数は3千件を超えたとされる。満州にいる日本人ばかりでなく、日本国内からも関東軍に対してその軍事的解決を求める声が強まった。特に昭和3年、関東軍の参謀となった陸軍の俊才、石原には、その「期待」が一心に集まる。そして、満州を占有することしかこの問題の解決策はないというのが、石原の結論だったのである。

 石原は、酒田法定での宣誓口述書の中で満州の状況を「いずれか一方が譲歩するか双方が妥協しない限り、解決は至難と認められた」と述べた。さらに「単なる外交交渉による日本権益の保持は期しがたかった」とし、こう主張した。
 「万一日本が満州より全面撤退したなら、単に権益を失うばかりではなく、ソ連が満州に進出し、日本自体がその国防をまっとうし得ず支那(中国)もまだ国防上重大な関頭に立つと言わざるを得ない」
 日本による侵略戦争であったなど、石原にすれば一笑に付すしかなかったのだ。

 

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2011年10月 5日 (水)

「ドナルド・キーンさんの講演」レビュー

~私は、こうした人々と共に生き、共に死にたいと思った~

 東日本大震災の発生を機に日本国籍取得を決意した日本文学研究の第一人者、ドナルド・キーン米コロンビア大名誉教授(89)が11日、永住表明後日本ではじめて講演した・・・(中略)・・・私の最近の本「日本人の戦争」(文芸春秋)に入っていますが、そこの(作家の)高見順さんが書いた日記(高見順日記)引用してあります。

 戦争が大変なころに高見山が上の駅にいったんですね。(疎開のため列車を待つ)大勢の人がいて皆、静かに並んでいて騒いでいる人はいなかった。あるいは我先にと乗ろうとしている人もいなかった。高見さんは「私はこうした人々とともに生き、共に死にたいと思った」と書いていますが、私も同じ結論に達しました。

 私の生涯は日本と密接な関係にあり、はじめて中尊寺に参詣してから現在まで、・・・・・・私は日本と日本人に特別な縁があるとしか思えません。

(日本への帰化を決めたことで感謝されることが多いが)私は今までやりたいことをやってきましたから、感謝はいりません。むしろ私のほうから感謝すべきです。みなさんありがとうございました。

20110920産経新聞

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